TOP > マンガ新聞レビュー部 > 子供と大人、夢と現実、自己と他者、希望と絶望……あらゆる境界を侵犯する萩尾望都の傑作『バルバラ異界』

※全4巻。Kindle版もあります。
ある事件をきっかけに長い眠りについたまま目を醒まさない女性「青葉」と、離婚して親権を失った父親「渡会」とその息子「キリヤ」、3人の人物を軸に展開される複雑な思弁的SF大作です。 無関係と思われた3人の運命が、金魚、アレルギー、作品のタイトルにもなっている「バルバラ」という言葉、火星、若返りなど、様々なキーワードによって結びついていく。
作者は日本を代表する漫画家のひとり萩尾望都。本作は日本SF大賞を受賞しています。圧倒的な名作なのですが、意外なほど読まれていないような気がします。
端役だと思っていた人物の近親者や恋人たちが、思わぬタイミングで物語の中心に躍り出ては読者に新しい作中世界の歴史を垣間見せ、そのたびごとに作品は「新しい展開」を獲得することになります。新しい展開といえば清々しい印象に聞こえるかもしれませんが、実際には死の気配と不安が常につきまとっている…強烈な希望と重苦しい絶望とが奇跡的なバランスで背中合わせに同居しているのです。とうぜん物凄い緊張感が全編に漲ることになるのですが、常時どこかしら脱力しており、読んでいてあまり疲れない不思議な作品でもあります。
湧き水や舞い散る花びらなど、マイナスイオン系というとかなり雑ですが、どこか読み手を癒やすようなモチーフが作中のあちこちにちりばめられているからかも知れません。
かつて萩尾望都は『イグアナの娘』や『残酷な神が支配する』で「親子」の共存の難しさを鮮やかに描き出しました。親子のあいだに避けがたく残り続ける心の傷のようなもの、本人にとっては忌まわしいものでしかない記憶や疑惑が、毎日の日常のなかで、そしてその延長としての個々人の未来に落とす暗い影を、直視している作家だと思います。
この「傷」を認めることで初めて明るい希望を人は抱くことができるようになるのですが、希望によって中和されることのないその傷の痛み、生きることへの耐えざる不信を登場人物に赤裸々に告白させます。例えば、親に捨てられたと信じている少年キリヤは次のように呟きます。
少しもぼくを愛してなぞいない世界で生きるって
手も指も足も息もただただ冷たくなるってことだ
自分が親に愛されていないのではないか。親の自分への愛情は偽物なのではないか。自分は親の愛に値する人間ではないのではないか。自分は親の本物の子供ではないのではないか。
疑い始めれば永遠に答えの見つからないこの問い掛けに対して、性急に答えを出し、ひとりで生きていこうとするためには、キリヤのように「自分は愛されていない」と早合点するしかありません。こう自分に言い聞かせることで、湧き出て止まらない疑惑を封じ込めようとする。作者はその痛みを見逃しません。
一方、眠っている青葉を目覚めさせるために、渡会は彼女の幸せな夢を破壊しなければならないことがわかります。それは「幸福な子供を不幸にする」ということ。作者の巧みで詩的なセリフとともに描かれる美しいキャラクターたちの困惑を目で追ううちに、読者は子供にも大人にも感情移入しながら、このように何重にも絡まりあったダブルバインドのなかに誘い込まれていくことになります。
読者が作品世界に迷い込んでいくのと平行して、渡会は青葉の夢のなかへと迷いこんでいきます。「他人の夢をさぐってるのに自分の問題が重なってゆさぶられる 一緒の転移」を経験するのです。
夢の世界、記憶のなかの過去、歴史的な過去、個々人の記憶、未来、将来の願望、外国、火星、御神楽、それらが「異界」として意図的に混ぜ合わさり、登場人物たちと読者を混乱させます。
読者はその混乱に乗じるようにして、惑星や生物の生死にまつわる壮大な歴史を、いくつかの家族の関係についての生々しい物語を、重ね合わせるように自分が読んでいることに気付かされるのです。
ほとんど無関係な偶然に思われていたすべてが、最終巻に向けて見事に編み上げられ、最後は驚くべき「ハッピーエンド」が待ち構えています。ネタバレになりますが、作品を読まなければ意味がわからないと思うので書いてしまうと、希望こそがまさに希望、夢こそがまさに夢である、このただの同語反復めいたテーマにすべてが収斂していきます。
夢と現実が反転しようとするのに対し、現実の人々は夢を終わらせようとする。それは現実の正義です。しかし夢の世界からすれば、「外」の残酷な世界から滅ぼされる恐怖もある。生身の人間は普通、どちらかに肩入れすることはできません。
渡会は、息子との希薄な関係に揺らぎながら、夢にダイブし、夢と現実というふたつの世界を橋渡ししようとします。しかしそれは簡単なことではありません。ふたつの世界は入れ子構造として描かれ、単純に「橋渡し」することはできないのです。可能なのは、本作そのものがそうであるように、夢と現実とを入れ替わり立ち代わり体験するということだけ。
夢と現実が入れ替わり立ち代わりになるもの、それは相手の気持ちを思いやり自分自身も尊重しようとする人間関係の維持と持続であり、夢の実現と諦めの耐えざる連続という子供の未来であり、仮説と実証によって続けられていく科学の発展でもあります。これらはいずれも、思わぬ大失敗により崩壊する危険を孕んでおり、かつ特定の誰かの努力で回避することができないものです。
また性別の違う2人が入れ替わったり、子供が入れ替わったり、本作では繰り返し入れ替わりと混乱が描かれ、その混乱を現実として生きている人々が描かれます。大事なのは無限の疑惑を呼び起こす「真理」ではなく、混乱を生きている人々がいるということを現実として前提し、時には自分自身をその1人として見なしながら、折り合いをつけて生きていくということかも知れません。
長々と書いてしまいましたが、要はこの作品は、東浩紀の小説『クォンタム・ファミリーズ』と映画『マトリックス』あるいは『インセプション』を、マンガ単行本4冊に圧縮してスマートに読ませる、絵も綺麗でかわいい、筋が複雑なのに楽しい、そういう驚異的な傑作なのです。
夢について考えたことのある人、SFに興味のある人、自分が親から愛されていないのではないかと疑ったことのある人、自分の子供は本当は自分の子供ではないかも知れないと疑ったことのある人、そういった人にはぜひ強くオススメしたい1冊です。
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