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『昭和元禄落語心中』が描き切った、生老病死を受け入れるための娯楽の価値

落語は複数の役を、一人で演じる。
文楽は一つの役を、三人で演じる。
(一体の人形を三人で遣う、いわゆる「三人遣い」。世界に類を見ない様式。)


日本が世界に誇る伝統芸能である両者はともに、一つの役だけを一人だけで演じるということをあえてしない。
思えば不思議な共通点だ。

 

しかも文楽は、三人のうちの一人(人形の胴、頭、右手を遣う、主(おも)遣い)だけが、黒子姿ではなく、紋付きはかま姿で顔を出して人形を遣う(左遣いが左手を、足遣いが両足を遣う。)。


他方で落語は、一人の人間が絶え間なく、表情や居住まい、声色を変えて、複数の登場人物を演じ分ける。
そう考えると、落語も文楽も、観客の目に晒されている演者自身のその「顔」(キャラクタ)は、少なくとも演目の本筋とは関係がない。
そんなところにも、共通点がある。

 

何故だろう?
“娯楽としてのわかりやすさ”や “役を演じる”ということからすれば、一見不合理にも思える。
江戸の時代から続く伝統芸能の不思議な共通点。

 

ただ、文楽の主遣いが顔を出しているということに関しては、いつだったか、「本朝廿四孝」(ほんちょうにじゅうしこう)という演目で、人間国宝の吉田簑助さんが演じる八重垣姫を観ていたときにふと、ひとり合点がいったということがあった。

 

文楽はもちろん、観始めは、人形の顔の横に人間の顔という状況に違和感がある。
人間が人形を動かしている、と如実に感じる。
けれど、物語に没入していくに連れて、無表情な主遣いの顔は気にならなくなり、三人遣いで織りなされる自然で細やかな人形の動きに目を奪われる。

やがては有機物だったはずの人間の方が、無機物である人形の付属品のように思えてくる。

 

とはいえやはり、主遣いの顔が晒されているという違和感は、強烈だ。再度、人形の顔の横に人間の顔という状況に意識が向く。
でもだんだんと、今一度演目に没入していく。

それにつれて、人形が生きているように見えてくる。人間が人形を動かしているのか、それとも、人形が人間を動かしているのかが、わからなくなってくる。


そうして私の意識は、人間と人形、有機と無機、現実と虚構という、相反するとも思われる世界を無数に行き来し、やがてはそれらの境界線が雲散霧消していく。
無機物であるはずの人形が、頭の先から指の先まで命が脈打ち、生気や色気が匂い立ち、本当に生きているようにしか見えなくなってくる。
まるで、人間の心臓を動力源にして、人形が動いているかのように。


そこではたと気づく。
「ああ、なるほど。だから文楽は一人、顔を出しているのだな。」と。

 

この感覚は明らかに、主遣いが顔を晒しているからこそのものだ。
人間の存在を排して単に物語だけを提供するよりも、物語とその外側の現実との間を無数に行き来させながら物語の中に誘っていく方が、観客にとってはより没入感が高く、と同時に、より現実世界の生身の悲哀が迫ってくるのだという発明が、そこにはあるように感じられた。


言い換えれば、演者自身の「顔」があえて晒され、かつ演目の本筋と切り離されているからこそ生まれる芸、とも言えるのかもしれない。
(ちなみに、このような感想をほかの記事や論考等で見かけたことはないので、以上はあくまで私見にとどまる。)

 

ここまで考えてみて、落語が「一つの役だけを一人だけで演じるということをしない」芸であることの意味も、ここにあるのかもしれない、と思い至った。

 

落語家は、演目の中で出てくる全ての登場人物を、ほぼ座ったまま、たった一人で演じ分ける。

演目が始まってしまえば、そこにいるのは落語家その人ではないし、かといって、同じ人物が演じ分けをしている以上、全ての登場人物は同じ落語家から生まれてもいる。
その意味で落語は、同じでもなく、異なってもいないということを楽しむ芸であり、逆にいえば、同じであってはいけないし、かといって、異なっていてもいけない芸、なのかもしれない。

 

そんなある種の約束事の中で、観客の意識は、落語家と演目の中の登場人物、今と昔、寄席と長屋や花街という、時間も空間も異なる世界を無数に行き来し、文楽と同様、やがてはそれらの境界線が曖昧になっていく。


演目と自分の人生が重なり、離れ、また重なる。

生まれ、生き、老い、死ぬという、誰もが逃れられない生きることの悲哀が、いつしかたまらなく愛おしくなり、あるいは思わず笑い飛ばさないではいられなくなってくる。
まさに庶民の、一個人のための娯楽。

 

『昭和元禄落語心中』の作中での大名跡「有楽亭八雲」をめぐる、初太郎と菊比古という2人の落語家もまた、そんな「同じでもなく、異なってもいない」という落語の魔力に取り憑かれ、人生を賭していく。

 

初太郎は強烈な天賦の才とキャラクタ故に、同じであってはいけない、という枷に苦しみ、菊比古は芸道への誠実さと自我の空虚さ故に、異なっていてもいけない、という枷に苦しむ。
だからこそ2人は、お互いの芸に、強烈に惹かれ合う。

 

『昭和元禄落語心中』では、彼ら二人を繋ぐ演目として、「死神」という演目が出てくる。
人の寿命をロウソクに見立て、この世とあの世の境界線を跨いでいく話だ。
このロウソクから生まれる炎は、寿命だけでなく、落語そのものや、生老病死という仏教でいう四苦、無常を表しているようにも思える。
炎は仏教において、まさに「同じでもなく、異なってもいない」ものだからだ。

 

仏教の智慧が平易な言葉で表現されていて、入門書としてお勧めの以下の本に、こういう記載がある。

 

「炎は一秒たりとも同じ炎にとどまることがない。
たったひとつの炎を観るだけで、『同じでもなく、異なってもいない』という炎の本性がわかる。同じという印象のかげには無常の性質が隠れている。何ものも一秒たりとも同じものにとどまることはできない。この性質は人間にも、雲にも、すべてのものにあてはまる。10分前に燃えていたロウソクの炎が、いまあなたが観ている炎と同じというならばそれは正しくない。もしあなたが1000の異なる炎が次々と連なっているというならば、それもまた正しくない。炎の本質とは、同じでもなく異なってもいない。異・同という観念の幻を突き抜けることができたなら、私たちは多くの苦しみを喜びに変容することができるだろう。」(春秋社・ティク・ナット・ハン著『死もなく、怖れもなく』86、87頁より)

 

 


 

 

落語には、生老病死の苦しみを喜びに、とまではいえないまでも、受け入れられるものに変容させる力があるのかもしれない。
それはきっと、落語という娯楽を愛する観客自身が生み出す力でもあるのだろう。


初太郎と菊比古は、葛藤と愛憎の果てに気づく。
観客の想像力の飛躍への信頼さえあれば、混沌を混沌のまま、次に繋いでいける、と。
血縁の有無とは関係なく、影響しあった命が繋がっていくということは、つまりはそういうことなのだ、落語には、生老病死を受け入れるための娯楽として価値がある、と。
初太郎と菊比古が落語を通して救われていく過程は、思い出すだけでもう、泣けてくる。

 

いまや「言葉」という乗り物が小さくなり、「わかりやすさ」で切り刻まれることを強いられるこの国で、いかに「言葉」で抗っていくか、混沌を混沌のまま繋いでいくか。
言葉にならないもの、観念や概念を超えたものをどう“伝える”か、という矛盾。
そのやむにやまれぬ矛盾がいわば炎のようなもので、その炎が芸術であり文化だと、改めて思う。

 

みんな少しずつ間違えて、
みんな少しずつ愚かで、
みんな少しずつ、優しい。

 

何かを遺せても遺せなくても、生まれ、生き、老い、死ぬ。
その営みの繰り返しの、さらにその連なりの中に身を置いていることを感じられるだけで、それは十分に幸せなことだ。

 

たった一つだけでも、心の底から愛せるものがあれば、
苦しいことも辛いことも悲しいことも、
死出の路銀になるのだろう。

そんな儚いこの世だからこそ、
たった一人が何かを変え、
たった一人が何かを終わらせることもある。

遺すべきものかどうか、と距離をとった是非論に捉われることなく、
心の底から愛するもののその眼前で、
菊比古のように、死ぬまで誠実な所作をする人間でありたい。
私はそう願って、最終巻をそっと閉じたことを、昨日のことのように思い出す。

『昭和元禄落語心中』。未読の方が羨ましい。

 

 


マンガ新聞レビュー部:小野田峻(小野田髙砂法律事務所/代表弁護士)

 

 

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