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癒されただけじゃまだ足りない!!可愛い絵柄の裏に込められた『きつねくんと先生』の奥深さとは?
レビュー執筆者:miyamo

 

ほのぼの漫画『きつねくんと先生』

 

今回は、Twitter発で人気を集めpixivコミック上のWEBコミック誌「くろふねピクシブ」で商業配信も行われているこちらを紹介。

 

とある小学校のとあるクラスに赴任した先生が、ひとりの生徒を見つめている。小柄な身体に短い手足。つぶらな瞳。そしてフサフサした全身の毛並みにピンと立った耳と尻尾。

 

それは、きつねだった。なぜか服を着て人間の子供たちにまじって教室で授業を受けている幼いきつねがいるのである。

 

他の生徒も教師も疑問に思う者はいない。どうもみんな文字通りきつねに化かされているらしい。先生が気づけたのは、幼いころから人間社会にまぎれこんでいる人外の生き物を見分ける霊感体質だからだ。ただし、先生は騒ぎ立てず、追及しない。べつに悪さはしないようだし、そっとしておけばお互い平和でいられるはずだ。

 

それでも、気にはなる。

 

楽しそうに遊ぶ他の子供たちを陰から見つめ、時にはそっと輪の中に混じりながらも存在を意識されず、流行りの話題にはまったくついていけないきつねの子。誰もいなくなった放課後の教室でぽつんとひとり席につき、紙に鉛筆で書きもののまねごとを一生懸命に繰り返すその姿は、どうもやるせない。

 

なぜ学校にいるのだろう? なんて呼べばいいのだろう? いつもああして、どこかおどおど怯えたようにすごしているのだろうか?

 

最初は不干渉のつもりだった先生だが、いったん気に留めれば放ってはおけなくなる。先生は先生だ。やれることも、かける言葉も決まっている。「最近よく学校に来るね」とあいさつし、教科書を渡して、「わからないことがあったら先生に訊きにきてくれ」と伝えるのである。

 

きつねの子が何者かは謎だけれど、先生のクラスにいる生徒であることには違いない。かくして、不思議なきつねの小学生に人間の先生が寄り添う、穏やかな日々が幕をあける……。

 

ひとの言葉はしゃべれず、くりくりとした目とちんまりした身体の所作だけで喜怒哀楽をあらわすきつねくんの可愛さ、けなげさは天下一品。好きな匂いへのこだわりかたなど、そういえばキツネってイヌ科なんだよなと思い出させるエピソードがちょくちょくあるのも面白い。

 

本作は、直接には妖怪と人間が種族を越えた絆をむすぶハートウォーミングで牧歌的なファンタジーだが、子供のありようを映す図としては真に迫ってもいる。

 

周囲と大きく毛色の違う個性をもつ子供というのがいる。社会の中で敷かれる基準に相対してハンデをもった子供というのがいる。べつにいじめられたり孤立しているわけでもないが、ちょっとだけ要領が悪くて浮いている子供、生き方のテンポが違う子供がいる。

 

そして、周囲の無関心によって顧みられず、存在感をふわふわ希薄にされてしまっている子供がいる。

 

そう、現実にも“きつねくん”はそこかしこにいるのだ。

 

現実の“きつねくん”たちに対しても、大人が果たすのに望ましい役割はそう変わらない。「そういうキミがそこにいることに私は気づいている」と伝えることができる大人がひとりでもいるかどうか。何かを教える以前に、まずそこで大きな違いが生まれるのだ。

 

親も仲間もなく孤独にすごしていたらしい子ぎつねが優しい先生になつき、またキツネの特性を備えたままクラスメートと関わりをもつ描写が増えるにつれ、ただほのぼのするだけでなく、ああよかったねえとしみじみした心持ちが沸いてくるのは、いま述べたような、この世にいるたくさんの“きつねくん”たちへ思いをはせざるをえないからかもしれない。

 

もっというと、化け物に気づくことができる先生もまた異端の哀切をほんのり帯びているのも注目点。個としての私たち人間ひとりひとり、みないわば人間社会にまじってヒトのふるまいを装い生きるバケモノだ。

 

だから『きつねくんと先生』において先生の視点ときつねくんの視点、実はそのどちらもが人間のものでどちらもが妖怪のものなのである。このマンガ、たいへんにすぐれた寓話になっている。

 

 

 

 

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