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生き返れる人間とそうでない人間の違いは?『生と死のキョウカイ』を読んで自分に問いかけろ!
レビュー執筆者:miyamo

 

ファンタジー漫画『生と死のキョウカイ』

 

「おお わが主よ! 全知全能の神よ!
 いま ひとたび ○○○に 命の息吹を あたえたまえ!」

 

(テーレーテーテーテーテーテーン♪)

 

〇〇〇は よみがえった!

 

……といえば、そう、国産ファンタジーRPGの大御所『ドラゴンクエスト』シリーズでおなじみ“いきかえらせる”の定番セリフ。

 

ステータス管理式のゲームで、体力系の数値を全損(=死亡)した仲間キャラを教会・聖堂・寺院といった宗教施設でリカバリーできるオプションは、もうひとつの大御所『ファイナルファンタジー』シリーズの1、2作目にもあったし、世代をひとつ上がって海外RPGの名古典『ウィザードリィ』にもみることができる。「ささやき ― えいしょう ― いのり ― ねんじろ!」というアレだ。

 

本日のピックアップ、「となりのヤングジャンプ」連載中の『生と死のキョウカイ』はそんな復活用の「教会」を、単なるシステムや脇役ではなくメインに据えて読者の死生観を刺激するユニークな作品である。

 

その世界には、魔王を倒さんとする勇者がいる。そして勇者の戦いに賛同し、人々をおびやかす魔物たちに立ち向かう数多の冒険者たちがいる。冒険者業はほんのわずかに実力や運が不足しただけでも死を避けられない、危うい生き方だ。そんな彼らから死への恐怖をとりのぞき、思いきって全力をふるってもらうため、万一の時に蘇生を施すのが「教会」だ。

 

ただし、誰でも生き返らせてやるわけではない。舞台となる教会では、敬虔深い聖教徒・エステルと、シニカルでシビアな蘇生士・ハッツ、両者の間で中立の俗物な司祭・クマ神父の3人が、冒険者の遺体を前に復活させるべきか・そのまま埋葬するべきかを合議する“最後の審判”をおこなっている。

 

魔王討伐を誓った冒険者という立場にふさわしい行いを生前にしていたか?
最弱のモンスターにさえ殺されるような、明らかに戦いに向いていない者を復活させてさらに無駄死にを繰り返させるのか?
ピークをとうに過ぎた老齢の冒険者を蘇生させて死地へ送るのは酷ではないか?
“初めて死んだ”人間がよみがえった時にパニックを起こしたらどう対処するか?

 

などなど具体的なシチュエーションのもとでバチバチと論戦が繰り広げられ、信条や思惑のある人間たちが営む組織として「教会」を描き、復活させる者の側では自分たちのしていることをどう捉えているのかというディテールを埋める思弁性が見どころとなる。

 

そうして蘇生か埋葬かを審判する個々のエピソードはやがて、“命はひとつきり”という観念を薄めてしまう「教会」のありかたが、聖職者として命を尊重する道と根本的に競合するのではないかという怪しさをにじませつつ、蘇生回数を重ねるごとに高まる人体への危険な影響をめぐる新展開につながっていく。

 

そこでしだいに明かされる、「教会」・国王・勇者の恐ろしい裏面……ヒロイックファンタジーの大きな物語に接しつつも、常に一歩ヨコに外れたところから照らし出す切り口に注目してほしい。

 

かつて、雑なゲーム悪影響論においては死人が気軽に復活できるゲームシステムはプレイヤーに生命軽視をすりこむとして非難する言説もあったものだ。しかし、死が軽い世界を描くからこそ“どれくらい軽くされたか”を浮き彫りにすることでむしろ生の目方を重く表現することも可能なのだ。そう感じさせる作品である。

 

 

 

 

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