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マゾヒスティックな『春琴抄』とサディスティックな『ホーキーベカコン』

谷崎潤一郎という作家を衆目の興味をひくように紹介するとなると、どうしても「性悪なS女に罵られたり踏まれたい人にオススメ!」などと描かれる変態性癖をたまに手の弾みでタップしてしまうエッチなマンガ広告のように直截にアピールすることが手早いように思えてしまうのですが、そのことに抵抗を催してしまう人もまた谷崎潤一郎という作家を愛好する方には多いことでしょう。

実際、いつかの「歴史秘話ヒストリア」で話題になったように谷崎本人のドM変態エピソードは事欠かないのであるし、「マゾ」「変態」という表現自体はやはり的外れではないのだけれど。
  
僕が谷崎潤一郎の『春琴抄』を読んだのは、大学に入学したばかりの講義のこと。
三島由紀夫の『仮面の告白』と対比する課題図書として指定されました。
  
注目するべきは文体。
三島由紀夫の緻密に構造が管理された文体に対し、「S女とM男」を描いていることを抜きにして、谷崎の作品はテクストそのものがマゾヒスティックであることを教えられる——この授業に触発されてか「中上健次って誰?」と言っていたのに「谷崎潤一郎が好き!」という生徒がいつの間にやら増えていたり。
  
さて、そんな谷崎潤一郎の『春琴抄』を原案とする作品が刊行されました。
笹倉綾人さんの『ホーキーベカコン』です。
 

ホーキーベカコン1
著者:笹倉 綾人
出版社:KADOKAWA
販売日:2019-03-06

 

迂回—遅延—宙吊り

「テクストそのものがマゾヒスティック」とはどういうことか、軽いご説明を。
端的にお伝えしようとすること自体が間違っている気がしますが、分かりやすい例として挙げられるのがこちらです。
 

私は、吸い物椀を手に持った時の、掌が受ける汁の重みの感覚と、生あたゝかい温味ぬくみとを何よりも好む。それは生れたての赤ん坊のぷよ/\した肉体を支えたような感じでもある。吸い物椀に今も塗り物が用いられるのは全く理由のあることであって、陶器の容れ物ではあゝは行かない。

第一、蓋を取った時に、陶器では中にある汁の身や色合いが皆見えてしまう。漆器の椀のいゝことは、まずその蓋を取って、口に持って行くまでの間、暗い奥深い底の方に、容器の色と殆ど違わない液体が音もなく澱んでいるのを眺めた瞬間の気持である。

人は、その椀の中の闇に何があるかを見分けることは出来ないが、汁がゆるやかに動揺するのを手の上に感じ、椀の縁ふちがほんのり汗を掻いているので、そこから湯気が立ち昇りつゝあることを知り、その湯気が運ぶ匂に依って口に啣ふくむ前にぼんやり味わいを豫覚する。

その瞬間の心持、スープを浅い白ちゃけた皿に入れて出す西洋流に比べて何と云う相違か。それは一種の神秘であり、禅味であるとも云えなくはない。

谷崎潤一郎『陰翳礼讃』(青空文庫)
  

スープ飲むときにこんなこと考えないわ!
言及されているのは漆器のお椀ですが、あなたが描写の奥に女体を思い浮かべても想像力過多ではないでしょう。
  
この「迂回−遅延—宙吊り」を通してスープに到達しそうで延々と到達しない——欲望が成就しそうで達しない「間接性」を生きること。
方々にお叱りを受けそうですが、矮小化すればいわゆる「見えそうで見えないのがいい」というのが谷崎マゾヒズムです。
  
そのマゾヒスティックな快楽を、テクストを「間接」してのイメージを強いる小説というメディア(媒体)で遺憾なく表出するのが谷崎潤一郎の作品であり、単にドM変態性癖を描いているということではなく、日本文学の傑作として評される所以のひとつなのでしょう。

 

マゾヒスティックな『春琴抄』

『春琴抄』は昭和時代に生きる語り手である「私」が、「鵙屋春琴伝」という書に記された春琴佐助という明治時代に死没した人物の生涯を追うのが筋となっています。
  
大阪道修町の薬種商鵙屋の娘・春琴は幼い頃に失明したものの、音曲(三味線)に秀でた才覚を示していました。
盲目である春琴の手を曳き身の回りの世話をしていた丁稚の佐助もまた三味線を学ぶようになり、彼女の弟子となります。
春琴−佐助の師匠−弟子という跪拝関係の行方を、「私」は「鵙屋春琴伝」と生前の二人を知る「鴫沢てる女」の証言などから読み解いていきます。
  
ここにも佐助と春琴を直接には描かず、「私」という語り手を介在させ、さらに「鵙屋春琴伝」という偽書を経由する「間接性」が施されているわけです。

まさにこのレビューが『春琴抄』について書くばかりで、肝心の『ホーキーベカコン』についてなかなか到達しないことで谷崎的な「遅延」の再現を試みているように、春琴と佐助の物語はマゾヒスティックな語りにより明かされない謎を湛えたものとなっています。(というのは言い訳です、はい。冗長な文章ですみません)

 

サディスティックな『ホーキーベカコン』

一方で漫画は小説と異なり、視覚へ直接的に訴える表現です。
『ホーキーベカコン』は原案『春琴抄』において「見えそうで見えない」状態であったものを明瞭に描くことになります。
  
女中をじわりじわりと言葉でいびり、首吊り寸前まで精神を犯して無邪気に笑う春琴に始まり、盲目の美少女/美女である春琴の嗜虐的な美しさが紙面には充満しています……たまらない!
つまり「見えそうで見えない」=「見たかった」ものを、『ホーキーベカコン』は見せてくれるわけです。
  
よって『春琴抄』にはなかった細部を『ホーキーベカコン』は描くことになりますが、其処には谷崎潤一郎作品への深い洞察を隅々に感じさせます。

谷崎のエッセイ「厠のいろいろ」を引いて蛾の羽の入った壺へ不浄を落とす春琴を描き(排泄は谷崎作品においてかなり重要なモチーフ)、「天朝様」への言及や、雲上人の肉欲さえ謎の手管で組み敷いてしまう春琴——これによる鶯の声の完成は「不敬」の要素を覗かせます。

 

『春琴抄』に忠実な差異

同じく『春琴抄』の影響が見られる篠房六郎さんの漫画『百舌谷さん逆上する』では、春琴の性質を「ツンデレ」に変奏し、その併走者として佐助とは異なるマゾヒスト像を描いてみせました。

一方で『ホーキーベカコン』はタイトルからして(「ホーキーベカコン」とは養育された鶯の美しい鳴き声を表した擬音語です)、隔絶した「人口の美」への妄執と成熟させたそれに踏みなじられることを愉悦とする佐助の倒錯したマゾヒスト像を丹念に描こうとしている印象です。(笹倉さんはツンデレを世に広めた作品のひとつ『灼眼のシャナ』の漫画をご担当された方ではありますが)
  
しかし「見えそうで見えないのがいい」ということは、裏返すと「決して見えてはいけない」ということです。
なぜなら欲望が成就してしまうと、マゾヒストの快楽は終わってしまうものだから。
ゆえに佐助は自らの目を突き失明することを選びます。
  
谷崎作品を愛好する友人は「『ホーキーベカコン』は好きだけれど『春琴抄』は好きではないお前はマゾの素質が無い!」と僕に豪語しました(彼は罵倒のつもりだったのだろうが、それは罵倒か?)。
彼が指摘したかったのは、『春琴抄』を忠実に描けば描くほど小説にあったマゾヒズムからは遠ざかるを得ないということでしょう。
  
そんな『春琴抄』に忠実な差異が『ホーキーベカコン』の冒頭から示されていることにお気づきの方も多いはず−−大塩平八郎の乱です。
 
「鵙屋春琴伝」に記された大阪道修町は大坂町奉行所の元与力が起こしたこの反乱の被害を受けたはずの場所にあるのですが、『春琴抄』は(おそらく)確信犯的にこの事件に触れておらず、谷崎の「社会に対する盲目宣言」と評されています。
一方で『ホーキーベカコン』では、時代背景として大塩平八郎の乱が直截に描かれます。
 
さらに谷崎マゾヒズムを目指すのであれば迂回—遅延するべき直接的な快楽—欲望の成就である射精や情交も原作になかった箇所で描かれます。

では『ホーキーベカコン』は何を目指しているのでしょうか?

 

私(たち)の盲目な考察

「何を目指しているのだろうか?」と問いかけておきながら、これもまた谷崎がやりがちなように物語的な謎には解を示さず放置して筆を置いてしまうのですが、その「事件」の伏線となりそうなのが『春琴抄』の大胆な翻案と捉えられる『ホーキーベカコン』の枠構造です。
 
『春琴抄』では「私」という何者かの語りであった部分は、『ホーキーベカコン』では「順市」と呼ばれる青年と大礼服の女性との対話に替えられています。

彼らが「鵙屋春琴伝」という偽書を広げ、一方で当時を明瞭に写した(かのように)春琴と佐助の情景が描かれる——ここに不穏な仕掛けを予感せざるを得ません(伏線でなければ深読みの暴走です、ごめんなさい)。
 
秘部の茂みのように微かな『春琴抄』の陰翳は、『ホーキーベカコン』でシャープな明暗へ切り分けられます。
『春琴抄』で蠢いていた闇を、輪郭を伴った「事件」としてクローズアップすることが『ホーキーベカコン』の狙いではないか——そう、僕は考えています。
 
このように『春琴抄』を読んでいると、『ホーキーベカコン』はかなりミステリとして愉しむことができる作品です。
どちらが先でも構いません、『春琴抄』と『ホーキーベカコン』、ぜひお読みになってみてください。